被爆伝承コーナー
広島県医師会 被爆伝承コーナー 開設
1945年(昭和20年)8月6日(月)午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島市へ投下され、市内は一瞬にして壊滅し焦土と化しました。当時の広島市の人口約35万人のうち、14万人が年内に亡くなられるという大惨事に見舞われました。
その原爆投下時の広島市には、2,370名の医療従事者がおりましたが、戦時下ということもあり、召集されなかった医師をはじめとする医療従事者は、防空業務従事命令により疎開することを禁止されており、市内にとどまり医療に従事していました。その9割が被爆し多くの殉職者を出しました。
かろうじて生き残った医師たちは、自らが被爆し傷ついた体でありながら、おびただしい数の被爆者に、必要な医薬品が全く足りない中、できる限りの応急処置を続けました。この姿こそ広島の医療者の原点であり、我々広島県医師会はこの尊い活動を胸に刻み、日々の医療に励むとともに、被爆地ヒロシマの医師として、被爆体験の伝承と被爆医療の推進に注力しております。
また、広島県医師会は国内の広島・長崎の被爆医療のみならず、在外被爆者健診やIPPNW活動などを通じて、恒久平和と核兵器廃絶を目指しておりますが、昭和20年の被爆から77年が経過した今日、当時を伝える被爆者も当時を知ることができる資料も失われつつあります。
そこで、現在の広島県医師会員6,900人に当時の証言と資料(カルテ・診断書・医療器具等)の提供を呼びかけたところ、多くの資料や証言の提供をいただきました。そのうえで当広島県医師会館1階に、「広島県医師会 被爆伝承コーナー」として常設展示し、ご来館の広島県民のみならず、県外からの医師・医療従事者・一般の方々にもご覧いただくことにより、広島・長崎の被爆の惨状や被爆医療、さらには平和への願いについて、後世に永く伝承することと致しました。
令和4年8月6日
一般社団法人 広島県医師会
会長 松村 誠
会場/期間
会場
広島県医師会館 1階(広島市東区二葉の里3丁目2–3)
期間
常設展示 平日9:00~17:00 土・日・祝日閉館
広島県医師会被爆伝承コーナー 展示物品の紹介
展示物品 | 提供 | 概要説明 |
---|---|---|
ポスター類 | 広島平和記念資料館 | 原爆投下前から被爆、被爆直後の混乱、熱線による被害、大混乱の中の救援活動、家族・知人の捜索の模様など |
ヒロシマの医師の原点 | 広島県医師会 | 当時の広島県医師会大原博夫会長と広島市医師会吉田寛一会長の原爆投下後の活動記録 |
溶融した瓦 | おだ内科クリニック 院長 小田 健司 先生 |
昭和20年頃、母が原爆投下後の広島市内にて回収した瓦 |
16菊花紋章鬼瓦 | おだ内科クリニック 院長 小田 健司 先生 |
昭和20年頃、母が広島市中区中町の白神社付近に建てられていた広島控訴院付近にて回収した瓦 |
原子雲の絵 | おだ内科クリニック 院長 小田 健司 先生 |
草津梅山(現:広島市西区草津梅が台)にあった自宅から母が目撃した原子雲の絵 |
瀧口医院 カルテ | 滝口耳鼻咽喉科 瀧口 峻 先生 |
祖父の瀧口一三医師が広島県比婆郡峰田村(現:広島県庄原市春田町)で開業していた医院のカルテ。昭和20年8月6日以降は広島市内から逃れてきた被爆者の診療も行っていた。 |
死亡診断書 | 隅田耳鼻咽喉科医院 隅田 正二 先生 |
義父堀江隆介は昭和20年8月6日、中国海軍軍需監督官事務所(現:広島市中区大手町二丁目、元銀行協会集会所)にて被爆。広島赤十字病院(現:広島赤十字・原爆病院)に収容され翌日、岩国海軍病院へ運ばれ、薬効なく8月12日に死亡。 |
『私もその中にいた』 | 松尾胃腸科内科医院 院長 松尾 泰夫 先生 |
先代院長である松尾公三医師が、爆心から800mの距離にあった特設警備隊広島西部第二部隊九中隊舎前にて被爆した体験を綴った書籍。 |
書籍 | 広島県医師会 | 広島市医師会、広島大学原爆放射線医科学研究所、放射線影響研究所など、専門機関の発行した書籍 |
主催/協力/問合せ
〈主催〉 広島県医師会
〈協力〉 広島大学原爆放射線医科学研究所/広島平和記念資料館
〈問合せ〉広島県医師会 総務課 TEL 082-568-1511