禁煙コーナー

禁煙に関するコラム

江戸時代におけるたばこ (1)禁煙令

広島市立安佐市民病院
名誉院長 岩森 茂

 わが国へのたばこ伝来の歴史は、1、2とりあげたことがある。すなわち、キリスト教伝道師フランシスコ・ザビエルが、1549年鹿児島に上陸したときに同行したポルトガル人船員によって伝えられたのが最初である。当初彼らの喫煙行為を見た日本人は、「南蛮人は肚(はら)の中で火をたいとる」と言って驚いている。引き続いてたばこの種が慶長のはじめ頃日本に持ち込まれ、植えられたのは判然としないが、長崎桜馬場、薩摩国指宿、肥前平戸などの説がある。いずれにしろ、たばこ葉が収穫され喫煙習慣がさかんになったのは、天応の末期から文禄のはじめ、つまり1589年~1592年秀吉の時代に入った頃である。次いで家康の江戸開府後、慶長年代に入ると禁煙令が初めて公布され、たばこの栽培者まで処罰されるようになった。その理由は失火の原因となる、無益である、さらに大きな理由として京都に今風のやくざの出現によったとの説がある。すなわち荊(いばら)組とか皮袴組と名乗る不良グループがけんか煙管(きせる)とよぶ総鉄製の大きな煙管を刀のように腰にさしたり、大きいものを供にかつがせたりして、町の中を横行し、乱暴、狼藉(ろうぜき)が烈しくなったので、家康は喫煙習慣を悪の根源として、彼らを捕らえて厳しく処罰・喫煙を禁止させることになったのである。もちろんたばこ生産も止めねばならず、その作付け、売買も禁止したが、これは実効はなかったと見え、元和2年には禁固刑や罰金刑を科す法令も出された。しかし、流行は止められないために家光の時代には煙管狩りも行われた。たとえば日本橋のかたわらに柵を設け、江戸中の煙管をその中に取捨てさせ、山ほど積み上げられたと記されている。これは地方の各藩もならったとされ、特に知恵伊豆として有名な松平伊豆守信綱の出した掟は厳しかった。すなわち家来がひそかに喫煙し自席を焦がしたことがわかり、その者を死罪に処したが、さらに焦がした様子と処罰のありさまを板に描かせ、それを邸内に据(す)えたことによって、以後喫煙するものは皆無となったとのこと。他藩においても喫煙者が悶絶、頓死などの流言が広まり、禁煙令は広まっていった。その後禁煙令は漸次後退することになり、慶安4年には「家内にて一定の場所を設け喫煙することを許す」というようないわば現代風の分煙が許される町触れが出された。そして、寛文7年には新たに開墾した土地でのたばこ栽培が認められ、喫煙の自由化が進んだが、屋外における喫煙は防火の面から相変わらず厳しかった。特に宝永年度には神田で大火事があり、その原因が女のくわえ煙管の不始末とわかり、この女は火あぶりの刑に処されたとの実話もある。江戸たばこ事情はますますおもしろくなるので、以下2、3の面から紹介していく。

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